女子更衣室は、お世辞にも綺麗とは言えない。女子トイレがそうであるように。
女性は綺麗である、というのは男性の妄想の範疇か、若しくは過去の文化遺産のようなものであろう。そもそも、らしいといえばらしいのだが、女性は自分とその周りにある物全てを「自分らしく」加工する事を好む。しかし、それが往々にして異性にはわけがわからない異形なものとして見える事に本人は気づかない。言い換えれば、最初は異性に「綺麗」と評されるために施していた細工が自分の趣味へと変わっている事に意外と気づいていない。もっとも、それは男性の趣味でも似たり寄ったりなのだが、その加工の質には性差というものが存在するように思われる。
いずれにせよ、加工の中に一種の箱庭のような作用があるのだろう。油絵のようにしつこく、何度も何度も自分の物やカラダという限られた「カンバス」の中で自分を表現してゆく。
田沢グループのロッカーは、自分たちの更衣室をティーンズ雑誌を始めとして、まるで鏡台のように化粧品で占められている。正反対の位置にある陽子と朋絵は、そういった表立った華やかさはないもののきちんと掃除されてあり、清潔感が感じられた。とは言え、陽子のロッカーには2匹のペルシアン・シルバーを模ったアクセサリーが隅に飾られてあったし、朋絵のロッカーが華やかでないのは、ただ単にそういうお洒落な自分に変身する勇気と自信がないだけなのだが。
陽子はリグの事を考えていた。朋絵はどちらかというと妹のような人間である為、頼られる事はあっても頼っては彼女の重荷になる。一方リグは長年の親友のような存在であるし、そもそも会話できるのは遼平と会うまでは陽子のみであったことから必然的に強い絆で結ばれている。だから忌憚の無い発言を、時にずけずけと言ってくれるので、かえって思い悩んでいた事がすっきりする時がある。陽子は軽く溜息をついて、アクセサリーの猫の鼻を、つんと触った。
「あ〜あ、宮嶋君と同じ班になりたいな〜。」
先程の屋上での陽子とのやりとりを知っている人間から言えば、どこからそういう声が出てくるのだ、と思うような猫なで声である。声の主は言うまでもない。
「暁美なら大丈夫だよ。ほら、こんなにカワイく化粧できてんじゃん。宮嶋君、きっとヤられるわよ。あなたの魅力に。」
「そっかなぁ。怖いわぁ。」
「何が怖いの?」
「そりゃあ、私の、ミ・リョ・ク。」
「いやだ〜、暁美ったら〜。どんだけ自信あんのよ〜。」
と、ここまでならば一応害の無い、他愛の無い会話である。ところが、いつの世にも自分の欲求を満たす為に一言多くなる人種というものが存在する。更衣室を出ようとする際、暁美と陽子の目が合ってしまう。
「あ〜あ、これでヘンな邪魔者がいないならな〜。」
明らかに悪意のある言い方で陽子を睨み付ける。
「ちょっと海外に行ってたからっていい気になんじゃないわよ。」
「そうよそうよ。ただ単に珍しがられているだけよ、珍獣さん。」
周りの二人も続ける。三人とも体操着には似つかわしくない厚化粧と香水である。
朋絵は今にも泣きそうだ。陽子は、口と、髪を束ねるリボンをきゅっと結んだ。
女性は綺麗である、というのは男性の妄想の範疇か、若しくは過去の文化遺産のようなものであろう。そもそも、らしいといえばらしいのだが、女性は自分とその周りにある物全てを「自分らしく」加工する事を好む。しかし、それが往々にして異性にはわけがわからない異形なものとして見える事に本人は気づかない。言い換えれば、最初は異性に「綺麗」と評されるために施していた細工が自分の趣味へと変わっている事に意外と気づいていない。もっとも、それは男性の趣味でも似たり寄ったりなのだが、その加工の質には性差というものが存在するように思われる。
いずれにせよ、加工の中に一種の箱庭のような作用があるのだろう。油絵のようにしつこく、何度も何度も自分の物やカラダという限られた「カンバス」の中で自分を表現してゆく。
田沢グループのロッカーは、自分たちの更衣室をティーンズ雑誌を始めとして、まるで鏡台のように化粧品で占められている。正反対の位置にある陽子と朋絵は、そういった表立った華やかさはないもののきちんと掃除されてあり、清潔感が感じられた。とは言え、陽子のロッカーには2匹のペルシアン・シルバーを模ったアクセサリーが隅に飾られてあったし、朋絵のロッカーが華やかでないのは、ただ単にそういうお洒落な自分に変身する勇気と自信がないだけなのだが。
陽子はリグの事を考えていた。朋絵はどちらかというと妹のような人間である為、頼られる事はあっても頼っては彼女の重荷になる。一方リグは長年の親友のような存在であるし、そもそも会話できるのは遼平と会うまでは陽子のみであったことから必然的に強い絆で結ばれている。だから忌憚の無い発言を、時にずけずけと言ってくれるので、かえって思い悩んでいた事がすっきりする時がある。陽子は軽く溜息をついて、アクセサリーの猫の鼻を、つんと触った。
「あ〜あ、宮嶋君と同じ班になりたいな〜。」
先程の屋上での陽子とのやりとりを知っている人間から言えば、どこからそういう声が出てくるのだ、と思うような猫なで声である。声の主は言うまでもない。
「暁美なら大丈夫だよ。ほら、こんなにカワイく化粧できてんじゃん。宮嶋君、きっとヤられるわよ。あなたの魅力に。」
「そっかなぁ。怖いわぁ。」
「何が怖いの?」
「そりゃあ、私の、ミ・リョ・ク。」
「いやだ〜、暁美ったら〜。どんだけ自信あんのよ〜。」
と、ここまでならば一応害の無い、他愛の無い会話である。ところが、いつの世にも自分の欲求を満たす為に一言多くなる人種というものが存在する。更衣室を出ようとする際、暁美と陽子の目が合ってしまう。
「あ〜あ、これでヘンな邪魔者がいないならな〜。」
明らかに悪意のある言い方で陽子を睨み付ける。
「ちょっと海外に行ってたからっていい気になんじゃないわよ。」
「そうよそうよ。ただ単に珍しがられているだけよ、珍獣さん。」
周りの二人も続ける。三人とも体操着には似つかわしくない厚化粧と香水である。
朋絵は今にも泣きそうだ。陽子は、口と、髪を束ねるリボンをきゅっと結んだ。
一方その頃、遼平は美術室にいた。
「どうかしたの?」
そう話すのは、この部屋の主である美術教師・上村だ。鼻先にかかっている眼鏡の上から、幾分ぼさっとしたロングの髪、微妙に和まない化粧。決して顔立ちが悪いわけではない、むしろ良い方である。良く言えばダイヤの原石、悪く言えば自分の見せ方を心得ていない、いや見せようともしない人間というべきか。
どちらであったとしても美術教師である事に加え、そういった自己顕示欲の無い現世離れした上村の有り様が遼平には心地よかった。
「え?」
遼平は、食べている所を制された為か、図星だった為か赤面した。
「オーラがね、何か夜明け前の灰色のような色をしているの。」
特徴的な容貌に加え、さらにこういった言動である。人に応じて話し振りを変えるような器用な人間から最も程遠い20代後半のこの女性は、まず間違いなく変人扱いされる。
遼平は、純粋に絵が好きでこの美術教師と接点を持ったのだが、最初は当惑する事が多かった。ただ、元々この先生は独りでいる場合が多かった為、二人だけで話し合うにつれ要領を得たのか、第三者がいる場合でも遠慮せず突拍子も無い事をいう人の近くにいるという気恥ずかしさを感じる機会は少なくなっていた。
それどころか現在では、仮にそういう状況になったとしても、平静でいられる自分に一種の精神的成長を感じていた。
とはいえ、さすがに自分の事を評されると当惑せずにはいられない。
「え…、そう、なんですか?」
恐る恐る聞き返す。
「うん、マドモワゼル・シャネル嬢よりも物憂げだわ」
「マドモワゼル?」
「マリーちゃんの絵よ。」
友達であるかのように、アール・デコ期の画家、マリー・ローランサンの事を言う。
「そう、輪郭がぼやけていて沈思黙考していて食べ物もペットもいるのに、そういったものに阿る事も無く、凛とはしているけど、難しい何かを抱えている感じなの。」
上村の世界は続く。
「もう、『孤独』なんて生易しいものはとっくの昔に過ぎている感じの顔。そういったときに放たれる目は、どこかしら、仏像に似ているわね。ま、遼ちゃんのそれは、そういった荘厳な感じではないんだけど、少なくとも何かを思い詰めている事は確かだと思うわ。」
ローランサンの人生などに、上村は全く興味が無い。いや、興味を持つ必要が無い。上村は、絵の世界が見えているだけのようであるから。
実は…、と、ここで忌憚なく相談できるような人間ならば、遼平はどこか陰影のある人間にはならなかったであろう。顔をうずめるようにして、母が作った弁当を食べる。
「まあ、全ては筆の導くままに…」
そういうと、上村は軽く微笑して、絵筆を取り、くるっとふり返って描きかけの絵の続きを描き始めた。
その姿は、落書き帳に絵を描いている少女のように楽しげだった。
遼平は、その姿を見るにつけ、やっぱ先生には敵わないな、と心の中でくすっと笑っていた。
「どうかしたの?」
そう話すのは、この部屋の主である美術教師・上村だ。鼻先にかかっている眼鏡の上から、幾分ぼさっとしたロングの髪、微妙に和まない化粧。決して顔立ちが悪いわけではない、むしろ良い方である。良く言えばダイヤの原石、悪く言えば自分の見せ方を心得ていない、いや見せようともしない人間というべきか。
どちらであったとしても美術教師である事に加え、そういった自己顕示欲の無い現世離れした上村の有り様が遼平には心地よかった。
「え?」
遼平は、食べている所を制された為か、図星だった為か赤面した。
「オーラがね、何か夜明け前の灰色のような色をしているの。」
特徴的な容貌に加え、さらにこういった言動である。人に応じて話し振りを変えるような器用な人間から最も程遠い20代後半のこの女性は、まず間違いなく変人扱いされる。
遼平は、純粋に絵が好きでこの美術教師と接点を持ったのだが、最初は当惑する事が多かった。ただ、元々この先生は独りでいる場合が多かった為、二人だけで話し合うにつれ要領を得たのか、第三者がいる場合でも遠慮せず突拍子も無い事をいう人の近くにいるという気恥ずかしさを感じる機会は少なくなっていた。
それどころか現在では、仮にそういう状況になったとしても、平静でいられる自分に一種の精神的成長を感じていた。
とはいえ、さすがに自分の事を評されると当惑せずにはいられない。
「え…、そう、なんですか?」
恐る恐る聞き返す。
「うん、マドモワゼル・シャネル嬢よりも物憂げだわ」
「マドモワゼル?」
「マリーちゃんの絵よ。」
友達であるかのように、アール・デコ期の画家、マリー・ローランサンの事を言う。
「そう、輪郭がぼやけていて沈思黙考していて食べ物もペットもいるのに、そういったものに阿る事も無く、凛とはしているけど、難しい何かを抱えている感じなの。」
上村の世界は続く。
「もう、『孤独』なんて生易しいものはとっくの昔に過ぎている感じの顔。そういったときに放たれる目は、どこかしら、仏像に似ているわね。ま、遼ちゃんのそれは、そういった荘厳な感じではないんだけど、少なくとも何かを思い詰めている事は確かだと思うわ。」
ローランサンの人生などに、上村は全く興味が無い。いや、興味を持つ必要が無い。上村は、絵の世界が見えているだけのようであるから。
実は…、と、ここで忌憚なく相談できるような人間ならば、遼平はどこか陰影のある人間にはならなかったであろう。顔をうずめるようにして、母が作った弁当を食べる。
「まあ、全ては筆の導くままに…」
そういうと、上村は軽く微笑して、絵筆を取り、くるっとふり返って描きかけの絵の続きを描き始めた。
その姿は、落書き帳に絵を描いている少女のように楽しげだった。
遼平は、その姿を見るにつけ、やっぱ先生には敵わないな、と心の中でくすっと笑っていた。
昼休み。陽子は、朋絵と一緒に屋上で昼食を食べていた。「彼女たち」を待つためだった。
不安と戸惑いが錯綜する中、陽子にとっては最も現れて欲しく無い人間がやってくる。
「やぁ、陽子。隣良いかな?」
いかにも自身ありげな口調で、すらっと背が高い男が陽子の隣の椅子に颯爽と座る。同級生の男にとっては、憎々しいことだが、口惜しくもそれが様になっているのだ。
「あ…。え、ええ…。」
陽子は、幾分眉をひそめた。対照的に朋絵は色めき立つ。
(ちょ…ちょ…ちょっと、陽子!宮嶋君よ宮嶋君!きゃ〜きゃ〜きゃ〜)
小声で、そう陽子に耳打ちする。朋絵はこういう事に関しては、恥ずかしがらずに積極的な子のようだ。
宮嶋は、その朋絵の慌てようを知ってかしらずか、髪をかきあげる仕草をする。そして、隣に座っているのに、半身を陽子のほうに寄せる。
陽子は流石に避けたい気持ちになる。それに少なくとも呼び捨てにされるほど、仲良くなっている印象は持っていない。思わず顔を背けると、目がきらきらと輝いている朋絵の姿が見えてぎょっとした。
「どう?答えを聞かせてくれるかな?」
ともかく強引である。まあ、ニュージーランドにもこういう人間は居たのだが、陽子は、あまりそういう異性とは仲良くなりたくないタイプのようだ。
「え、ええ…と。」
(なになになになに?陽子、まさかまさか、もしかしてもしかして?)
いつもの雰囲気からは想像もつかないくらい豹変している朋絵の存在にも陽子はびっくりしている。それくらい、この学校の女生徒にとって、この宮嶋という人間は特別なのであろう。
「君と僕とはお似合いだと思うんだけどな。」
そう少し微笑を浮かべながらも真顔で話す宮嶋。どうも、こういった彼の言動は、陽子が帰国子女だから、と言うようなものではなく、彼の性状であるようだ。
「………。」
陽子は終始俯きがちである。その様子を、宮嶋は、どうも違う印象のように受け取っているようだ。
「あ、恥ずかしがらなくて良いんだよ。じゃ、今度でも返事聞かせてよ。」
そう言うと、宮嶋はさっと、その場を離れ去って行った。
「いや〜!やっぱり宮嶋君ってカッコいいよねぇ〜!私、間近で見てドキドキしちゃった。」
朋絵の喜びようといったら無い。陽子は、流石に黙っているわけにも行かず、適当なところで生返事をしたが、その戸惑いは隠しきれないで居た。
(日本にも、こんなに積極的な人間がいるんだ。)
陽子は、そう思いつつも溜息をついた。
しかし、次の瞬間、陽子は、その溜息を飲み込まざるを得ない状況となる。
凄い形相で例の「待ち人」が来たのだ。
「ちょっと!楓さん!」
田沢暁美(あけみ)だ。明らかにヒステリックな様子である。両隣には、いつものように、真季子と晶を従えている。陽子は、わけもなく息遣いの荒い犬に、追い詰められた印象を持った猫のような心境でいた。
「あなた、どういうつもりなの?よりによって、わざわざ私と会う前に宮嶋君をたぶらかすなんて。」
それを聞いた朋絵は、彼女自身陽子を贔屓目に見ている事を差し引いても、暁美の物言いは見当はずれだと思った。
「ちょ、ちょっとな…」
朋絵が戸惑いつつ反論しようとしても、暁美は有無を言わさずまくし立てる。
「ふざけないで。今まさにやっていたじゃない!私が居ない所でこそこそやって!」
取り付く島がない。その後、しばらく暁美ら三人は、陽子ら二人にとっては意味不明の事を繰り返し、
「いい!今度、泥棒猫みたいなことしたら許さないからね!」
という捨て台詞を吐いて、その場を去って言った。不条理だとは思いつつも、朋絵は暁美の剣幕に圧倒されたようだ。
「陽ちゃん、どうしよう。」
陽子は、軽く「うん、大丈夫、大丈夫よ。」と返事をしながらも、その後は黙っていた。
不安と戸惑いが錯綜する中、陽子にとっては最も現れて欲しく無い人間がやってくる。
「やぁ、陽子。隣良いかな?」
いかにも自身ありげな口調で、すらっと背が高い男が陽子の隣の椅子に颯爽と座る。同級生の男にとっては、憎々しいことだが、口惜しくもそれが様になっているのだ。
「あ…。え、ええ…。」
陽子は、幾分眉をひそめた。対照的に朋絵は色めき立つ。
(ちょ…ちょ…ちょっと、陽子!宮嶋君よ宮嶋君!きゃ〜きゃ〜きゃ〜)
小声で、そう陽子に耳打ちする。朋絵はこういう事に関しては、恥ずかしがらずに積極的な子のようだ。
宮嶋は、その朋絵の慌てようを知ってかしらずか、髪をかきあげる仕草をする。そして、隣に座っているのに、半身を陽子のほうに寄せる。
陽子は流石に避けたい気持ちになる。それに少なくとも呼び捨てにされるほど、仲良くなっている印象は持っていない。思わず顔を背けると、目がきらきらと輝いている朋絵の姿が見えてぎょっとした。
「どう?答えを聞かせてくれるかな?」
ともかく強引である。まあ、ニュージーランドにもこういう人間は居たのだが、陽子は、あまりそういう異性とは仲良くなりたくないタイプのようだ。
「え、ええ…と。」
(なになになになに?陽子、まさかまさか、もしかしてもしかして?)
いつもの雰囲気からは想像もつかないくらい豹変している朋絵の存在にも陽子はびっくりしている。それくらい、この学校の女生徒にとって、この宮嶋という人間は特別なのであろう。
「君と僕とはお似合いだと思うんだけどな。」
そう少し微笑を浮かべながらも真顔で話す宮嶋。どうも、こういった彼の言動は、陽子が帰国子女だから、と言うようなものではなく、彼の性状であるようだ。
「………。」
陽子は終始俯きがちである。その様子を、宮嶋は、どうも違う印象のように受け取っているようだ。
「あ、恥ずかしがらなくて良いんだよ。じゃ、今度でも返事聞かせてよ。」
そう言うと、宮嶋はさっと、その場を離れ去って行った。
「いや〜!やっぱり宮嶋君ってカッコいいよねぇ〜!私、間近で見てドキドキしちゃった。」
朋絵の喜びようといったら無い。陽子は、流石に黙っているわけにも行かず、適当なところで生返事をしたが、その戸惑いは隠しきれないで居た。
(日本にも、こんなに積極的な人間がいるんだ。)
陽子は、そう思いつつも溜息をついた。
しかし、次の瞬間、陽子は、その溜息を飲み込まざるを得ない状況となる。
凄い形相で例の「待ち人」が来たのだ。
「ちょっと!楓さん!」
田沢暁美(あけみ)だ。明らかにヒステリックな様子である。両隣には、いつものように、真季子と晶を従えている。陽子は、わけもなく息遣いの荒い犬に、追い詰められた印象を持った猫のような心境でいた。
「あなた、どういうつもりなの?よりによって、わざわざ私と会う前に宮嶋君をたぶらかすなんて。」
それを聞いた朋絵は、彼女自身陽子を贔屓目に見ている事を差し引いても、暁美の物言いは見当はずれだと思った。
「ちょ、ちょっとな…」
朋絵が戸惑いつつ反論しようとしても、暁美は有無を言わさずまくし立てる。
「ふざけないで。今まさにやっていたじゃない!私が居ない所でこそこそやって!」
取り付く島がない。その後、しばらく暁美ら三人は、陽子ら二人にとっては意味不明の事を繰り返し、
「いい!今度、泥棒猫みたいなことしたら許さないからね!」
という捨て台詞を吐いて、その場を去って言った。不条理だとは思いつつも、朋絵は暁美の剣幕に圧倒されたようだ。
「陽ちゃん、どうしよう。」
陽子は、軽く「うん、大丈夫、大丈夫よ。」と返事をしながらも、その後は黙っていた。
「ちょっと、楓さん。」
それは、女性だけで会話がなされるときのトーンだった。しかも、ただ事ではないのは、その語気から、わかる。
陽子は、(きたっ…!)、と思った。叱られた子供のような、しかめっ面をした後、片目をつぶったまま、呼びかけた方を向く。
そこには、3人のクラスメートの女の子が眉をひそめて、陽子のほうを見ていた。
「話が、あるの。昼休み、第一講義室屋上に来て。」
陽子が返事を言う間を持たせる事無く、その3人は、陽子の元を去った。有無を言わさず、といったところだろうか。陽子は、大きな溜息をついた。
「ちょっとちょっと陽ちゃん。何話してたの?」
席が隣だったこともあり、仲良くなった川嵜(さき)朋絵が、廊下での先生の質問から帰ってきた。
「う、うん、なんでもないわ。」
情の深さが顔にも表れている朋絵に、相談事なんてしたら、多分、一日中、気を揉ませる事になるだろう。まだ1ヶ月も経ってないのに、陽子は朋絵の性格を、なぜかこういう風に決め込んでいた。
「う〜ん。ポジション悪ィ。」
男子トイレで、康輔が冗談めいて喋る。
「そういや、午後、混合バレーだな。『事故』らないかな。」
そう言う、康輔の顔はにやついている。勿論、ここでの「事故」に込められた意味は、決して悪いものではない。むしろ、康輔にとっては、僥倖とも言える事態を指しているようだった。勿論、あらぬ事を妄想するのが、この世代だが、康輔のそれは、一層逞しいものだったようだ。
隣で、またいつものことか、と呆れ半分、飽き半分でいい加減に聞いていた遼平は、昨日の夜の事を思い浮かべていた。
(僕も、康輔みたいに、こんなに喋る事ができたらなぁ…)
宙吊りになった、陽子の相談は一体なんだったのだろう。昼前の授業の合間合間に、遼平は、ちらりと陽子の顔を見ていた。昨夜の事があったからであろうか、幾分浮かない顔をしているかのように見えた。
授業は、世界史だった。遼平は、世界史が好きだった。日々の煩わしさも、広大な世界で今もなお連綿と続いているのべ何百・何千億の人間の営みを聞くにつけ、ばからしくなって心が晴れる気がするからだ。
しかし、今日の授業は、遼平にとってはつまらないものだった。ローマ帝国成立前の話で、第二回三頭政治において、実力者アントニウスが、同じく三頭の一翼アクタヴィアヌスの実姉アクタヴィアと離婚し、クレオパトラと結婚したがために、アントニウスは没落の道を辿り、クレオパトラのプトレマイオス朝もアクティウムの海戦により滅亡した。勿論、クレオパトラとの一件は、単なる口実だっただけかもしれないが、不義の恋により、一国の王朝が滅亡し、世界史上まれに見る、広大な帝国を作るきっかけにまで至ったのが、遼平にとっては、甚だ不満だった。政争の舞台に乗る人間の思惑で、幾多の人間が血を流したという事実に、いつも感じている、人と接する事の煩わしさが、遼平のどこかで重なったのかもしれない。
そんな憂鬱の中、遼平と陽子、お互いの昼休みが始まった。
それは、女性だけで会話がなされるときのトーンだった。しかも、ただ事ではないのは、その語気から、わかる。
陽子は、(きたっ…!)、と思った。叱られた子供のような、しかめっ面をした後、片目をつぶったまま、呼びかけた方を向く。
そこには、3人のクラスメートの女の子が眉をひそめて、陽子のほうを見ていた。
「話が、あるの。昼休み、第一講義室屋上に来て。」
陽子が返事を言う間を持たせる事無く、その3人は、陽子の元を去った。有無を言わさず、といったところだろうか。陽子は、大きな溜息をついた。
「ちょっとちょっと陽ちゃん。何話してたの?」
席が隣だったこともあり、仲良くなった川嵜(さき)朋絵が、廊下での先生の質問から帰ってきた。
「う、うん、なんでもないわ。」
情の深さが顔にも表れている朋絵に、相談事なんてしたら、多分、一日中、気を揉ませる事になるだろう。まだ1ヶ月も経ってないのに、陽子は朋絵の性格を、なぜかこういう風に決め込んでいた。
「う〜ん。ポジション悪ィ。」
男子トイレで、康輔が冗談めいて喋る。
「そういや、午後、混合バレーだな。『事故』らないかな。」
そう言う、康輔の顔はにやついている。勿論、ここでの「事故」に込められた意味は、決して悪いものではない。むしろ、康輔にとっては、僥倖とも言える事態を指しているようだった。勿論、あらぬ事を妄想するのが、この世代だが、康輔のそれは、一層逞しいものだったようだ。
隣で、またいつものことか、と呆れ半分、飽き半分でいい加減に聞いていた遼平は、昨日の夜の事を思い浮かべていた。
(僕も、康輔みたいに、こんなに喋る事ができたらなぁ…)
宙吊りになった、陽子の相談は一体なんだったのだろう。昼前の授業の合間合間に、遼平は、ちらりと陽子の顔を見ていた。昨夜の事があったからであろうか、幾分浮かない顔をしているかのように見えた。
授業は、世界史だった。遼平は、世界史が好きだった。日々の煩わしさも、広大な世界で今もなお連綿と続いているのべ何百・何千億の人間の営みを聞くにつけ、ばからしくなって心が晴れる気がするからだ。
しかし、今日の授業は、遼平にとってはつまらないものだった。ローマ帝国成立前の話で、第二回三頭政治において、実力者アントニウスが、同じく三頭の一翼アクタヴィアヌスの実姉アクタヴィアと離婚し、クレオパトラと結婚したがために、アントニウスは没落の道を辿り、クレオパトラのプトレマイオス朝もアクティウムの海戦により滅亡した。勿論、クレオパトラとの一件は、単なる口実だっただけかもしれないが、不義の恋により、一国の王朝が滅亡し、世界史上まれに見る、広大な帝国を作るきっかけにまで至ったのが、遼平にとっては、甚だ不満だった。政争の舞台に乗る人間の思惑で、幾多の人間が血を流したという事実に、いつも感じている、人と接する事の煩わしさが、遼平のどこかで重なったのかもしれない。
そんな憂鬱の中、遼平と陽子、お互いの昼休みが始まった。
「な、なにっ?」
遼平は、いつになくどきどきしていた為、声が幾分上ずった。
「うん…、あのね…。」
陽子は言い辛そうだった。
夜の静寂。番犬の遠吠えが遠くから聞こえる。
陽子の部屋は、洗い立ての髪のせいだろうか、それとも、鏡台の近くにある化粧品のせいだろうか、甘い匂いがしてくる。
こういう時、優柔不断な人間はかえって得かもしれない。というのは、二人だけによる、声なき会話が幾度となく繰り返されるからだ。ただし、血のつながりがある二人にとっては、どうもそのような雰囲気ではなさそうである。
黙っている遼平に、陽子は一呼吸おいて徐に話し出した。
「宮嶋駿司君って、同級生にいるじゃない?」
ああ、あの背が高くてテニスが上手い彼か。と、遼平は、彼の取り巻きの黄色い声援を送っている女性と共に宮嶋の事を想起した。それと同時に、自分と陽子以外の人間の話に話題が変わったためか、落ち着きを取り戻す。
「彼って…、どんな人なの?」
これを聞いた遼平は、なるほどそういうことか、と思った。確かに、宮嶋ほどの好青年ならば、陽子も興味を示して当然だろう。陽子と宮嶋ならば、美男美女でお似合いのカップルになりそうだ。
「どんな人って、ご覧の通りの人だよ。」
遼平は微笑ましく答えた。その様子を見た陽子は怪訝な顔を浮かべる。
「ご覧の通りって?」
「言わなくてもわかってるんじゃない?スポーツマンで、人気者で、クラスの女子のアイドルさ。」
遼平は、さらっと言った。陽子は次第に困った顔になってくる。
「えぇと、そうじゃなくて、なんといったら良いのかな、学校で私と彼のやりとりを見てない?」
遼平は、しばらく考え込んだ。実のところ、ほとんど陽子と宮嶋のやりとりを見ているわけではない。そして、しばらく考え込んだ後、次第に思い出し、こっちも訝しげに言う。
「うん、仲良くやってるんじゃないの?」
陽子は、ますます困った顔をした。
「違うの。いや、友達としては違わないわ。仲良くやってるわよ。でもね、私は、それ以上の気持ちは持ってないの。」
そして、一葉の手紙を差し出した。遼平は封をあけなかったが、差出人は誰なのかは、すぐにわかった。
勝手にやってくれ。そう言うほど、遼平は投げやりな人間ではない。だが、この時は、ほぼそれに比するくらい無関心な姿勢を取っていた。
「うーん、でも僕にはわからないよ。…きみ、と彼とのやりとりだからね。」
陽子は、やや失望の念を感じたが、それを押し込めるように、笑顔を繕う。
「そうね、そうよね。聞いても仕方のないことだよね。久々に、家族ができちゃったんで、甘えちゃった。」
そう言うと、ごめんね、と陽子は軽く謝り、遼平は彼女の部屋を後にした。
その夜、ベッドの中で遼平は中々寝つけなかった。彼女が最後にいった言葉を、何度もかみ締めていた。
翌週の月曜日、学校ではちょっとした事件が起きていた。陽子は予知能力、というより、人の気持ちの流れ、というのを判断するのに長けているのだろう。彼女が抱いていた嫌な予感が的中することになるのである。
遼平は、いつになくどきどきしていた為、声が幾分上ずった。
「うん…、あのね…。」
陽子は言い辛そうだった。
夜の静寂。番犬の遠吠えが遠くから聞こえる。
陽子の部屋は、洗い立ての髪のせいだろうか、それとも、鏡台の近くにある化粧品のせいだろうか、甘い匂いがしてくる。
こういう時、優柔不断な人間はかえって得かもしれない。というのは、二人だけによる、声なき会話が幾度となく繰り返されるからだ。ただし、血のつながりがある二人にとっては、どうもそのような雰囲気ではなさそうである。
黙っている遼平に、陽子は一呼吸おいて徐に話し出した。
「宮嶋駿司君って、同級生にいるじゃない?」
ああ、あの背が高くてテニスが上手い彼か。と、遼平は、彼の取り巻きの黄色い声援を送っている女性と共に宮嶋の事を想起した。それと同時に、自分と陽子以外の人間の話に話題が変わったためか、落ち着きを取り戻す。
「彼って…、どんな人なの?」
これを聞いた遼平は、なるほどそういうことか、と思った。確かに、宮嶋ほどの好青年ならば、陽子も興味を示して当然だろう。陽子と宮嶋ならば、美男美女でお似合いのカップルになりそうだ。
「どんな人って、ご覧の通りの人だよ。」
遼平は微笑ましく答えた。その様子を見た陽子は怪訝な顔を浮かべる。
「ご覧の通りって?」
「言わなくてもわかってるんじゃない?スポーツマンで、人気者で、クラスの女子のアイドルさ。」
遼平は、さらっと言った。陽子は次第に困った顔になってくる。
「えぇと、そうじゃなくて、なんといったら良いのかな、学校で私と彼のやりとりを見てない?」
遼平は、しばらく考え込んだ。実のところ、ほとんど陽子と宮嶋のやりとりを見ているわけではない。そして、しばらく考え込んだ後、次第に思い出し、こっちも訝しげに言う。
「うん、仲良くやってるんじゃないの?」
陽子は、ますます困った顔をした。
「違うの。いや、友達としては違わないわ。仲良くやってるわよ。でもね、私は、それ以上の気持ちは持ってないの。」
そして、一葉の手紙を差し出した。遼平は封をあけなかったが、差出人は誰なのかは、すぐにわかった。
勝手にやってくれ。そう言うほど、遼平は投げやりな人間ではない。だが、この時は、ほぼそれに比するくらい無関心な姿勢を取っていた。
「うーん、でも僕にはわからないよ。…きみ、と彼とのやりとりだからね。」
陽子は、やや失望の念を感じたが、それを押し込めるように、笑顔を繕う。
「そうね、そうよね。聞いても仕方のないことだよね。久々に、家族ができちゃったんで、甘えちゃった。」
そう言うと、ごめんね、と陽子は軽く謝り、遼平は彼女の部屋を後にした。
その夜、ベッドの中で遼平は中々寝つけなかった。彼女が最後にいった言葉を、何度もかみ締めていた。
翌週の月曜日、学校ではちょっとした事件が起きていた。陽子は予知能力、というより、人の気持ちの流れ、というのを判断するのに長けているのだろう。彼女が抱いていた嫌な予感が的中することになるのである。
「どう、陽ちゃん。新しい生活には慣れた?」
金曜日の夕食時。遼平達の母は、箸を止めて、陽子に話しかけた。
「ええ、おかあさま。みんな優しくしてくれて、とても楽しいわ。」
そう言って、陽子はにっこりした。遼平は、まるでそういった会話を聞いていないかのように、黙々と食べている。
「遼平はどう?ちゃんと学校でも陽ちゃんに優しくしている?」
遼平は、何やら作れぬ顔をした。遼平は、その場を繕う、といった器用な事は期待できる人間ではないようだし、何より、そういった嘘や方便を嫌だと思う人間のようだ。
(そんなことより…、そんなことよりだよ…。)
食事を終え、遼平は自分の部屋のベッドに横たわる。
遼平には渾然とした思いがあった。無理もない。知らない事が多すぎたのだ。
双子のきょうだいがいた。
父親がいた。
それに、喋る猫。
この中で遼平が最も当惑させられたのは、父の存在だ。今まで、自分に何の連絡もなく、そして、今回どういうわけか急に陽子を単身で母親に引き取らせ、そして自分には音信不通のまま。どう考えても無責任としか言いようが無い。それに、母や陽子は、どうしてその事に関して何も言わないのだろう。
遼平は、よっぽどそのことについて聞きたかったが、最初のうちは、すぐに本人たちの口から語られると思い、待っていた。ところが、まず第一に話題にすべきこの事が一向に話されない。遼平は、不審がった。と同時に、もしその話に踏み入ったら、後戻りできない何かが起こる予感がした。それに、聞いたら聞いたで、自分の心の中に父と言う存在が大きく膨らむこととなり、それを受け入れられるかどうかという心配もでてきていた。
そういった訳で、遼平にはその気持ちが募っては聞きだせずに悶々としている。
【な〜にやってんのよ。難しい顔して。】
リグが、その長毛をモコモコ揺らしながら、遼平の部屋に入ってきた。
「うるさいな。」
遼平は、たしなめる。リグは、それでも我関せず、といった雰囲気だ。
(はぁ、普通のネコだったら、こういう時に…。)
ペットに対して人間は、無防備に自分の心情をさらけ出すときがある。それと言うのも、ペットというものが、自分の意思に対して意見しないからであろう。これが、人並みに意見を言おうものならたまったものではない。結局、ペットというものは、物言わぬ生物であるからこそ、ペットたりえるのだろう。その意味で、リグはペットではなかった。
遼平は、美術画集を見ている。セザンヌの、彼らしいタッチで描かれている「赤いチョッキの少年」。少年の頬杖をついている姿、及び、右目と左目の大きな違いをじっと眺めている。
【ふぅん。他のと違うわねぇ。】
遼平を尻目に、リグは、部屋の床に立てかけていた遼平の書きかけの絵を、関心げに見ている。
「わかるのかい、きみに。」
【失礼ね。向こうでも陽ちゃんとグラハム・シドニーの美術展を見に行ったりとか、美術には結構うるさい方なのよ。】
相変わらずの対抗心が強い喋り方に、食傷気味の遼平。とはいえ、高をくくったような遼平の言動にも当然、問題はある。
「ふぅん。じゃあ、何が変わったっての?」
【そうねぇ……、作品自体から「ゆらぎ」のようなものを感じるわ。】
「『ゆらぎ』って?」
【う〜ん、何と言ったら良いのかな。普通、作品というのは、言いたい事がはっきりしていて、落ち着いて見られるんだけど…。これは、作品自体が作品の中で、何かを模索中で「ゆらい」でいるわ。だから、見ているほうもイメージを増幅ができるんだけど、それを良いと思うかどうかは、人それぞれだと思うわね。】
期待しない事がかえって幸いしたのだろうか、リグの感想は遼平の琴線に触れ、この高飛車な猫をちょっと見直した。
「へ〜、さすが、あの子の猫だね。」
こういう言われ方が嫌いな筈のこの猫にしては珍しく、嬉しそうな声をする。
【うん、陽ちゃんみたいな素晴らしい人と一緒にいれて、私、幸せだわ。】
(たしかに…)
遼平は、今週の出来事を思い出してみた。会う人間全てが、必ず一回は陽子の事を口に出した覚えがある。確かに新入生だから無理もないのだが、それにしてもその話があまりにも多かったし、ほぼ全てが好意的な評価だった。
(これが他人ならば、羨望か嫉妬しているんだろうな、きっと)
元々、人間と言うものに興味を感じない遼平には珍しく、彼女の事を思った。普通は身内の方がより、愛憎が湧くというものだが、そうならないのは遼平と陽子がまだ他人行儀なつきあいしかやっていなかったためもあるだろう。それにも増して、遼平が他人と自分との関係を評するのに不慣れであることがあげられるのだが。
「ふぅん。で、その御主人様はどうしたんだい?」
「御主人様って失礼ね。私は下僕じゃないわ。陽ちゃんとは友達なの。」
遼平の言に、リグは、またムッとなる。
「ごめんごめん、じゃあ、その親友はどうしたの?」
「お風呂入ってるの。私、濡れるの嫌いだから、こうして待ってるけど退屈で退屈で。」
そう言うと、リグは、遼平のベッドで丸くなった。
「こらっ。毛がつくからっ!」
遼平は、抱きかかえるようにして、リグをベッドから離した。
「何よっ!触らないでよっ!」
リグは逆毛立てて鳴きわめく。いよいよ遼平はうんざりする。乱暴に持ち上げ、そのまま、この猫を飼い主の部屋へと戻そうとした。その間中、リグは、遼平の懐で暴れていたが、なんとか陽子の部屋へと無理矢理連れて行った。
「さぁ、お前の部屋はここだ!」
部屋のドアが少し開いていたのもあり、遼平は、そのまま陽子の部屋に入って、可愛らしく形作られた猫用の寝床にリグを放り投げた。
「ふぅ。これでよし。」
一仕事終えて、遼平は埃を落とすかのように、手をパンパンと叩いている。実際、遼平は満足げだ。しかし、次の瞬間、遼平は凍りつく。
「ちょ、ちょっと。どういうつもり。」
恐る恐る、背後を見る遼平。
そこには、既に風呂を上がり、ネグリジェ姿になっている陽子がいたのだった。
「あ、いや、猫が、さっ。」
ろくに顔も合わせずに、立ち去ろうとする遼平。
「あ、待って。」
陽子は、遼平を呼び止める。
「ちょっと…、話したい事があるの…。」
伏目がちな陽子の頬は、ほのかに朱に染まっているように見えた。
1993,2003-2004
金曜日の夕食時。遼平達の母は、箸を止めて、陽子に話しかけた。
「ええ、おかあさま。みんな優しくしてくれて、とても楽しいわ。」
そう言って、陽子はにっこりした。遼平は、まるでそういった会話を聞いていないかのように、黙々と食べている。
「遼平はどう?ちゃんと学校でも陽ちゃんに優しくしている?」
遼平は、何やら作れぬ顔をした。遼平は、その場を繕う、といった器用な事は期待できる人間ではないようだし、何より、そういった嘘や方便を嫌だと思う人間のようだ。
(そんなことより…、そんなことよりだよ…。)
食事を終え、遼平は自分の部屋のベッドに横たわる。
遼平には渾然とした思いがあった。無理もない。知らない事が多すぎたのだ。
双子のきょうだいがいた。
父親がいた。
それに、喋る猫。
この中で遼平が最も当惑させられたのは、父の存在だ。今まで、自分に何の連絡もなく、そして、今回どういうわけか急に陽子を単身で母親に引き取らせ、そして自分には音信不通のまま。どう考えても無責任としか言いようが無い。それに、母や陽子は、どうしてその事に関して何も言わないのだろう。
遼平は、よっぽどそのことについて聞きたかったが、最初のうちは、すぐに本人たちの口から語られると思い、待っていた。ところが、まず第一に話題にすべきこの事が一向に話されない。遼平は、不審がった。と同時に、もしその話に踏み入ったら、後戻りできない何かが起こる予感がした。それに、聞いたら聞いたで、自分の心の中に父と言う存在が大きく膨らむこととなり、それを受け入れられるかどうかという心配もでてきていた。
そういった訳で、遼平にはその気持ちが募っては聞きだせずに悶々としている。
【な〜にやってんのよ。難しい顔して。】
リグが、その長毛をモコモコ揺らしながら、遼平の部屋に入ってきた。
「うるさいな。」
遼平は、たしなめる。リグは、それでも我関せず、といった雰囲気だ。
(はぁ、普通のネコだったら、こういう時に…。)
ペットに対して人間は、無防備に自分の心情をさらけ出すときがある。それと言うのも、ペットというものが、自分の意思に対して意見しないからであろう。これが、人並みに意見を言おうものならたまったものではない。結局、ペットというものは、物言わぬ生物であるからこそ、ペットたりえるのだろう。その意味で、リグはペットではなかった。
遼平は、美術画集を見ている。セザンヌの、彼らしいタッチで描かれている「赤いチョッキの少年」。少年の頬杖をついている姿、及び、右目と左目の大きな違いをじっと眺めている。
【ふぅん。他のと違うわねぇ。】
遼平を尻目に、リグは、部屋の床に立てかけていた遼平の書きかけの絵を、関心げに見ている。
「わかるのかい、きみに。」
【失礼ね。向こうでも陽ちゃんとグラハム・シドニーの美術展を見に行ったりとか、美術には結構うるさい方なのよ。】
相変わらずの対抗心が強い喋り方に、食傷気味の遼平。とはいえ、高をくくったような遼平の言動にも当然、問題はある。
「ふぅん。じゃあ、何が変わったっての?」
【そうねぇ……、作品自体から「ゆらぎ」のようなものを感じるわ。】
「『ゆらぎ』って?」
【う〜ん、何と言ったら良いのかな。普通、作品というのは、言いたい事がはっきりしていて、落ち着いて見られるんだけど…。これは、作品自体が作品の中で、何かを模索中で「ゆらい」でいるわ。だから、見ているほうもイメージを増幅ができるんだけど、それを良いと思うかどうかは、人それぞれだと思うわね。】
期待しない事がかえって幸いしたのだろうか、リグの感想は遼平の琴線に触れ、この高飛車な猫をちょっと見直した。
「へ〜、さすが、あの子の猫だね。」
こういう言われ方が嫌いな筈のこの猫にしては珍しく、嬉しそうな声をする。
【うん、陽ちゃんみたいな素晴らしい人と一緒にいれて、私、幸せだわ。】
(たしかに…)
遼平は、今週の出来事を思い出してみた。会う人間全てが、必ず一回は陽子の事を口に出した覚えがある。確かに新入生だから無理もないのだが、それにしてもその話があまりにも多かったし、ほぼ全てが好意的な評価だった。
(これが他人ならば、羨望か嫉妬しているんだろうな、きっと)
元々、人間と言うものに興味を感じない遼平には珍しく、彼女の事を思った。普通は身内の方がより、愛憎が湧くというものだが、そうならないのは遼平と陽子がまだ他人行儀なつきあいしかやっていなかったためもあるだろう。それにも増して、遼平が他人と自分との関係を評するのに不慣れであることがあげられるのだが。
「ふぅん。で、その御主人様はどうしたんだい?」
「御主人様って失礼ね。私は下僕じゃないわ。陽ちゃんとは友達なの。」
遼平の言に、リグは、またムッとなる。
「ごめんごめん、じゃあ、その親友はどうしたの?」
「お風呂入ってるの。私、濡れるの嫌いだから、こうして待ってるけど退屈で退屈で。」
そう言うと、リグは、遼平のベッドで丸くなった。
「こらっ。毛がつくからっ!」
遼平は、抱きかかえるようにして、リグをベッドから離した。
「何よっ!触らないでよっ!」
リグは逆毛立てて鳴きわめく。いよいよ遼平はうんざりする。乱暴に持ち上げ、そのまま、この猫を飼い主の部屋へと戻そうとした。その間中、リグは、遼平の懐で暴れていたが、なんとか陽子の部屋へと無理矢理連れて行った。
「さぁ、お前の部屋はここだ!」
部屋のドアが少し開いていたのもあり、遼平は、そのまま陽子の部屋に入って、可愛らしく形作られた猫用の寝床にリグを放り投げた。
「ふぅ。これでよし。」
一仕事終えて、遼平は埃を落とすかのように、手をパンパンと叩いている。実際、遼平は満足げだ。しかし、次の瞬間、遼平は凍りつく。
「ちょ、ちょっと。どういうつもり。」
恐る恐る、背後を見る遼平。
そこには、既に風呂を上がり、ネグリジェ姿になっている陽子がいたのだった。
「あ、いや、猫が、さっ。」
ろくに顔も合わせずに、立ち去ろうとする遼平。
「あ、待って。」
陽子は、遼平を呼び止める。
「ちょっと…、話したい事があるの…。」
伏目がちな陽子の頬は、ほのかに朱に染まっているように見えた。
1993,2003-2004
コメントをみる |

「転校生を紹介する。君、さぁ、こちらに。」
数学の岩谷先生−通り名、岩(がん)さん−が、隣にいる陽子を呼びつけた。そして、自己紹介を促す。
「ニュージーランドから引っ越してきました、楓陽子です。よろしくお願いします。」
制服が新しいせいだろう、遼平の目には、彼女に制服はどこか不似合いな感じがした。あるいは、先日の私服姿が余程印象深かったからだろうか。
(おい、あの娘、滅茶可愛いと思わねぇか?)
隣に座っている東康輔が遼平の腕をポンポンと叩いて、同意を求める。
(ん、あ、ああ、まあな。)
遼平は、小声でお茶を濁した。
陽子の席は、遼平の席から斜め二つ前へと座らされた。早速、隣席の男女から、ニュージーランドの事や、互いの自己紹介など、賑やかになる。
「こら、そろそろ授業だぞ。休み時間にでも喋ろ。」
岩さんのカミナリが飛ぶ。もっとも、この人は常に雷神のような性格をしているのだが、話の筋が通っているし、何より凄味が半端じゃないことから、かえって厳父のような畏敬の念を男子生徒達から受けていた。
ともあれ、その日から遼平は、陽子の非凡な才能を目の当たりにする事になる。
留学していた為、英語ができるのは当然だが、理数系も満点近い得点であるし、スポーツも得意な方であった。遼平が最も驚いたのは、陽子は帰国子女であるのに国語や日本史などにも愉楽を感じることができる人間であったことだ。加えて、すらっとした体型と見目麗しい容姿が、彼女の魅力の底辺を成していた。
遼平は帰国子女というものに、少なからず偏見を持っていた。合理的過ぎるために、どこか険があり、日本に馴染めないのでは、と思う人間を見てきていたからだ。もっとも、遼平が見てきたと言う帰国子女は数人しかいなかったわけであるが。
こうなると否が応でも、陽子は目立つ存在となった。転入後1週間の間に、その噂は学校全体に広まることとなる。だが、遼平は必要以上、人とは交わりたくない人間だったし、厄介事は嫌だったので、学校では陽子とは、なるべく遠い位置にいた。陽子と同居している事を秘密にしていたのだが、これだけ陽子が目立つ存在だと、ばれるのも時間の問題だな、と遼平は溜息をついた。その理由は、なぜ同じ屋根の下に姓の違う同い年の人間が住んでるのか、しつこく詮索する人間が、沢山でてきそうだったからである。遼平にとっては、ただただ、自分の気に入った絵を求め描き続けている時間が取れなくなる心配をするだけであった。
(それに、あの能力が皆に知られたらどう思うだろう。)
「あの能力」とはいうまでも無い、猫と話せる能力の事である。ただ、猫とは言っても、陽子が連れてきた猫・リグの話しか聞き分けることはできなかったのであるが。
(あのコは、他の猫や動物とも喋れるのだろうか。)
当然のことながら、遼平は陽子の学業成績よりも、そういった能力の方が気になっていた。遼平にとっての1週間は、その事に思いを馳せつつ絵を描きつづけるものとなった。思わず、ふとした時に、キャンバスにリグと陽子の絵を描いてしまうたびに、遼平は慌ててそれを手直しする。そういった作業を何度が繰り返していた。
1993,2003-2004
数学の岩谷先生−通り名、岩(がん)さん−が、隣にいる陽子を呼びつけた。そして、自己紹介を促す。
「ニュージーランドから引っ越してきました、楓陽子です。よろしくお願いします。」
制服が新しいせいだろう、遼平の目には、彼女に制服はどこか不似合いな感じがした。あるいは、先日の私服姿が余程印象深かったからだろうか。
(おい、あの娘、滅茶可愛いと思わねぇか?)
隣に座っている東康輔が遼平の腕をポンポンと叩いて、同意を求める。
(ん、あ、ああ、まあな。)
遼平は、小声でお茶を濁した。
陽子の席は、遼平の席から斜め二つ前へと座らされた。早速、隣席の男女から、ニュージーランドの事や、互いの自己紹介など、賑やかになる。
「こら、そろそろ授業だぞ。休み時間にでも喋ろ。」
岩さんのカミナリが飛ぶ。もっとも、この人は常に雷神のような性格をしているのだが、話の筋が通っているし、何より凄味が半端じゃないことから、かえって厳父のような畏敬の念を男子生徒達から受けていた。
ともあれ、その日から遼平は、陽子の非凡な才能を目の当たりにする事になる。
留学していた為、英語ができるのは当然だが、理数系も満点近い得点であるし、スポーツも得意な方であった。遼平が最も驚いたのは、陽子は帰国子女であるのに国語や日本史などにも愉楽を感じることができる人間であったことだ。加えて、すらっとした体型と見目麗しい容姿が、彼女の魅力の底辺を成していた。
遼平は帰国子女というものに、少なからず偏見を持っていた。合理的過ぎるために、どこか険があり、日本に馴染めないのでは、と思う人間を見てきていたからだ。もっとも、遼平が見てきたと言う帰国子女は数人しかいなかったわけであるが。
こうなると否が応でも、陽子は目立つ存在となった。転入後1週間の間に、その噂は学校全体に広まることとなる。だが、遼平は必要以上、人とは交わりたくない人間だったし、厄介事は嫌だったので、学校では陽子とは、なるべく遠い位置にいた。陽子と同居している事を秘密にしていたのだが、これだけ陽子が目立つ存在だと、ばれるのも時間の問題だな、と遼平は溜息をついた。その理由は、なぜ同じ屋根の下に姓の違う同い年の人間が住んでるのか、しつこく詮索する人間が、沢山でてきそうだったからである。遼平にとっては、ただただ、自分の気に入った絵を求め描き続けている時間が取れなくなる心配をするだけであった。
(それに、あの能力が皆に知られたらどう思うだろう。)
「あの能力」とはいうまでも無い、猫と話せる能力の事である。ただ、猫とは言っても、陽子が連れてきた猫・リグの話しか聞き分けることはできなかったのであるが。
(あのコは、他の猫や動物とも喋れるのだろうか。)
当然のことながら、遼平は陽子の学業成績よりも、そういった能力の方が気になっていた。遼平にとっての1週間は、その事に思いを馳せつつ絵を描きつづけるものとなった。思わず、ふとした時に、キャンバスにリグと陽子の絵を描いてしまうたびに、遼平は慌ててそれを手直しする。そういった作業を何度が繰り返していた。
1993,2003-2004
喋り声の主は、真っ白なペルシアン・シルバーだった。
【まったく、レディに対して失礼よ。】
そう言うと、その猫は、威嚇の表情をした。
「というか、おまえ…!?」
遼平の混乱は続く。
【何?わたしがどうかしたの?】
猫は、警戒の顔を崩さず、やや語気を荒げて言う。
そんな折、後から物音がした。
「あ、あ〜!?」
驚いているのやら、慌てているのやらわからない陽子がいる。
なんなのさ、いったい。遼平はそう思う。
「リグ、隠れといてっていったのに。」
慌てているため、声が上ずっている陽子に、リグと呼ばれた猫は、言い返す。
【だって、陽ちゃん、あの場所狭いし、みすぼらしいし、それに暗い所は華やかなわたしには、似つかわしくないわ。】
そういって、リグはおすましした。
「なんて猫だ。」
遼平は、正直な所、この猫にあまり良い印象を持たなかった。しかし、遼平の言葉を聞いた陽子は驚く。
「『なんて猫』って、あなたもリグの言うことがわかるの?」
遼平は、両手を横にやり、「さぁね」と言わんばかりのポーズをした。陽子は目を丸くしている。
「てっきり、私だけの能力だと思っていたんだけど…、やっぱり血が繋がっているせいかしら。」
「ちょっと待ってよ。さっきも聞きたかったんだけど、『血が繋がっている』ってことは…?」
陽子は両方の眉を上げて首を傾げるようにして言う。周知の事実と言わんばかりの態度と表情だ。
「…そのようね。と言っても、おかあさまの面影なんて私にはなかったわ。」
遼平は(僕にも、父親の面影なんてないさ。)と言おうと思ったが、リグが間断なく喋る。
【いやだわ。よりによってこの男が、陽ちゃんのきょうだいだっていうの。】
リグは、再び眉間に皺を寄せる。
「こっちだって。」
遼平は流石にむっときたようだ。二人はいがみ合う。
「こらこら、ふたりともやめて。」
陽子は溜息まじりだ。
「やっぱり、こうなるんじゃないかと思ってたのよ。リグは気難しいから。」
【陽ちゃん、そういう言い方は無いんじゃない。わたしだって寂しかったのよ。】
いつも味方である筈の陽子の思わぬ言にリグは、少し辛そうな表情になった。
「ごめんなさい、リグ。でもね、これからは…」
そう言って陽子は、目の前にいる男の名前を思い出す。
「遼平君やおかあさまと同じ家で一緒に暮らすのよ。仲良くやって行きたいじゃない?」
もの悲しげに話す陽子に、リグもしゅんとした顔になり、
【ごめんなさい、陽ちゃん。わたし、わがままだったわ。】
そうなると遼平も、この猫に同情し出す。
「まあ、元はと言えば、僕が被さったのが悪かったわけだったから。ごめんね、リグ。」
これを聞いたリグは、耳とヒゲを逆立てて、ぎょろっとした目になったかと思うと、慌てて、そっぽを向いた。
【わ、わかればよいのよ。】
陽子は、その光景を見て微笑を浮かべている。
「さっ、仲直り仲直り。」
遼平とリグは、互いに渋々握手を交わした。もっとも、その光景を見た人間がいたならば、リグが遼平に「お手」をしただけのように見えた事だろう。
「陽子ちゃーん、入るわよ〜。」
遼平の母が、そう言ってお風呂場に入る為の洗面所のドアを叩く。
「あっ、いっけなーい。」
陽子は、中々、お風呂に入れないでいる。遼平は遼平でいつもの、静々とした日常がい一気に変わった。
二人にとって、今日は落ち着かない一日となったようだ。
陽子は、慌てて階下へと降りていった。それについていく、リグの尻尾は、ぴんと立っていた。
1993,2003
【まったく、レディに対して失礼よ。】
そう言うと、その猫は、威嚇の表情をした。
「というか、おまえ…!?」
遼平の混乱は続く。
【何?わたしがどうかしたの?】
猫は、警戒の顔を崩さず、やや語気を荒げて言う。
そんな折、後から物音がした。
「あ、あ〜!?」
驚いているのやら、慌てているのやらわからない陽子がいる。
なんなのさ、いったい。遼平はそう思う。
「リグ、隠れといてっていったのに。」
慌てているため、声が上ずっている陽子に、リグと呼ばれた猫は、言い返す。
【だって、陽ちゃん、あの場所狭いし、みすぼらしいし、それに暗い所は華やかなわたしには、似つかわしくないわ。】
そういって、リグはおすましした。
「なんて猫だ。」
遼平は、正直な所、この猫にあまり良い印象を持たなかった。しかし、遼平の言葉を聞いた陽子は驚く。
「『なんて猫』って、あなたもリグの言うことがわかるの?」
遼平は、両手を横にやり、「さぁね」と言わんばかりのポーズをした。陽子は目を丸くしている。
「てっきり、私だけの能力だと思っていたんだけど…、やっぱり血が繋がっているせいかしら。」
「ちょっと待ってよ。さっきも聞きたかったんだけど、『血が繋がっている』ってことは…?」
陽子は両方の眉を上げて首を傾げるようにして言う。周知の事実と言わんばかりの態度と表情だ。
「…そのようね。と言っても、おかあさまの面影なんて私にはなかったわ。」
遼平は(僕にも、父親の面影なんてないさ。)と言おうと思ったが、リグが間断なく喋る。
【いやだわ。よりによってこの男が、陽ちゃんのきょうだいだっていうの。】
リグは、再び眉間に皺を寄せる。
「こっちだって。」
遼平は流石にむっときたようだ。二人はいがみ合う。
「こらこら、ふたりともやめて。」
陽子は溜息まじりだ。
「やっぱり、こうなるんじゃないかと思ってたのよ。リグは気難しいから。」
【陽ちゃん、そういう言い方は無いんじゃない。わたしだって寂しかったのよ。】
いつも味方である筈の陽子の思わぬ言にリグは、少し辛そうな表情になった。
「ごめんなさい、リグ。でもね、これからは…」
そう言って陽子は、目の前にいる男の名前を思い出す。
「遼平君やおかあさまと同じ家で一緒に暮らすのよ。仲良くやって行きたいじゃない?」
もの悲しげに話す陽子に、リグもしゅんとした顔になり、
【ごめんなさい、陽ちゃん。わたし、わがままだったわ。】
そうなると遼平も、この猫に同情し出す。
「まあ、元はと言えば、僕が被さったのが悪かったわけだったから。ごめんね、リグ。」
これを聞いたリグは、耳とヒゲを逆立てて、ぎょろっとした目になったかと思うと、慌てて、そっぽを向いた。
【わ、わかればよいのよ。】
陽子は、その光景を見て微笑を浮かべている。
「さっ、仲直り仲直り。」
遼平とリグは、互いに渋々握手を交わした。もっとも、その光景を見た人間がいたならば、リグが遼平に「お手」をしただけのように見えた事だろう。
「陽子ちゃーん、入るわよ〜。」
遼平の母が、そう言ってお風呂場に入る為の洗面所のドアを叩く。
「あっ、いっけなーい。」
陽子は、中々、お風呂に入れないでいる。遼平は遼平でいつもの、静々とした日常がい一気に変わった。
二人にとって、今日は落ち着かない一日となったようだ。
陽子は、慌てて階下へと降りていった。それについていく、リグの尻尾は、ぴんと立っていた。
1993,2003
事件というものは、いきなり起こるものだ。
高校2年生の初秋、ほんのりとした暖かさがある日。その日の放課後、遼平は、長袖のYシャツを着てきた事を軽く後悔しながら、腕まくりをしていつものように高校の裏手にある丘から緑の多い風景をスケッチしていた。遠くから部活をやって騒いでいる同級生の声が聞こえている。夕焼けで朱色に染まった風景はどこか悲しそうで、どこか彼の心を和ませていた。
うん こういう日は いい
実際、筆が面白いように滑らかに走った。そうなると彼の気持ちはわくわくしてきて、楽しくなってくる。そして、キャンバスの絵が立体的な世界を作り遼平をそこへと誘う。
ああ、なんて良い日なんだ。遼平は実際、この日に感謝していた。こうなるともう、周囲の雑音は耳に入らず、代わりに今まで遼平の心に話しかけてこなかった風景や植物達が歓喜の声を上げてくる。
今まで滞っていた絵が一気に進む。筆洗があっという間に濁る。いつもは面倒だった、300m程離れた水道への水の入れ替え作業も、今日は足取り軽く向かう事ができた。
水を替え終え、戻ると、そこにはいつもと違う風景があった。
「あら、これ、あなたの絵?」
そう言ってにこやかに声をかけてきた女の子は、赤いリボンがついたキャペリンをかぶっていた。
「ああ、そうだけど。」
現実を切り離し、今まで浸りきっていた世界を見られたからだろうか。遼平は気恥ずかしさが出てきて、素っ気無く答えた。
「ふぅん。」
彼女は再び絵のほうへと目を向ける。その際、肩の辺りまで伸びた髪が、微かに膨らんだ。
「なんかいい感じだよね、この絵。」
絵を見たままで彼女は言う。声に少し弾みがある。
どきっとする。
そう言ってこっちを見て浮かべた笑みに、以前見たような懐かしい面影を感じたからだ。
「うん、あ、ああ、まぁな。」
とりあえずの返事に彼女はくすくすと笑った。その時、ワンピースを覆っている、フリルのついた淡い色のカーディガンが蝶のように羽ばたくように見えた。
彼女が帰った後、遼平の筆はぱたっと言うことを聞かなくなった。どうも、作品に集中できない。そればかりか、彼女の事ばかりが頭の中に浮かんできて、思わずカンバスに彼女の絵を描きそうになってしまっていた。
(どうも、ムリそうだな)
そう思った遼平は、道具をしまい帰路に着いた。足取りは不思議と軽い。それに加え、色々物思いながら歩いていたためだろうか、あっという間に家に着いた。
鍵を開け、中に入る。遼平の母はまだ仕事中で、いつものように家の中はしんと静まりかえっている。遼平は台所の上に鞄と画材道具の入ったバッグをぞんざいに置き、洗面所に向かう。
ガラッという音と共に、いつものように口を漱ぐつもりだった。しかし、そこには普段ではありえない光景が見えていた。
「きゃっ。」
下着姿の「彼女」がそこにいたのだ。
1993,2003
高校2年生の初秋、ほんのりとした暖かさがある日。その日の放課後、遼平は、長袖のYシャツを着てきた事を軽く後悔しながら、腕まくりをしていつものように高校の裏手にある丘から緑の多い風景をスケッチしていた。遠くから部活をやって騒いでいる同級生の声が聞こえている。夕焼けで朱色に染まった風景はどこか悲しそうで、どこか彼の心を和ませていた。
うん こういう日は いい
実際、筆が面白いように滑らかに走った。そうなると彼の気持ちはわくわくしてきて、楽しくなってくる。そして、キャンバスの絵が立体的な世界を作り遼平をそこへと誘う。
ああ、なんて良い日なんだ。遼平は実際、この日に感謝していた。こうなるともう、周囲の雑音は耳に入らず、代わりに今まで遼平の心に話しかけてこなかった風景や植物達が歓喜の声を上げてくる。
今まで滞っていた絵が一気に進む。筆洗があっという間に濁る。いつもは面倒だった、300m程離れた水道への水の入れ替え作業も、今日は足取り軽く向かう事ができた。
水を替え終え、戻ると、そこにはいつもと違う風景があった。
「あら、これ、あなたの絵?」
そう言ってにこやかに声をかけてきた女の子は、赤いリボンがついたキャペリンをかぶっていた。
「ああ、そうだけど。」
現実を切り離し、今まで浸りきっていた世界を見られたからだろうか。遼平は気恥ずかしさが出てきて、素っ気無く答えた。
「ふぅん。」
彼女は再び絵のほうへと目を向ける。その際、肩の辺りまで伸びた髪が、微かに膨らんだ。
「なんかいい感じだよね、この絵。」
絵を見たままで彼女は言う。声に少し弾みがある。
どきっとする。
そう言ってこっちを見て浮かべた笑みに、以前見たような懐かしい面影を感じたからだ。
「うん、あ、ああ、まぁな。」
とりあえずの返事に彼女はくすくすと笑った。その時、ワンピースを覆っている、フリルのついた淡い色のカーディガンが蝶のように羽ばたくように見えた。
彼女が帰った後、遼平の筆はぱたっと言うことを聞かなくなった。どうも、作品に集中できない。そればかりか、彼女の事ばかりが頭の中に浮かんできて、思わずカンバスに彼女の絵を描きそうになってしまっていた。
(どうも、ムリそうだな)
そう思った遼平は、道具をしまい帰路に着いた。足取りは不思議と軽い。それに加え、色々物思いながら歩いていたためだろうか、あっという間に家に着いた。
鍵を開け、中に入る。遼平の母はまだ仕事中で、いつものように家の中はしんと静まりかえっている。遼平は台所の上に鞄と画材道具の入ったバッグをぞんざいに置き、洗面所に向かう。
ガラッという音と共に、いつものように口を漱ぐつもりだった。しかし、そこには普段ではありえない光景が見えていた。
「きゃっ。」
下着姿の「彼女」がそこにいたのだ。
1993,2003