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2007年3月6日 Twilight
 一方その頃、遼平は美術室にいた。

 「どうかしたの?」

 そう話すのは、この部屋の主である美術教師・上村だ。鼻先にかかっている眼鏡の上から、幾分ぼさっとしたロングの髪、微妙に和まない化粧。決して顔立ちが悪いわけではない、むしろ良い方である。良く言えばダイヤの原石、悪く言えば自分の見せ方を心得ていない、いや見せようともしない人間というべきか。

 どちらであったとしても美術教師である事に加え、そういった自己顕示欲の無い現世離れした上村の有り様が遼平には心地よかった。

 「え?」

 遼平は、食べている所を制された為か、図星だった為か赤面した。

 「オーラがね、何か夜明け前の灰色のような色をしているの。」

 特徴的な容貌に加え、さらにこういった言動である。人に応じて話し振りを変えるような器用な人間から最も程遠い20代後半のこの女性は、まず間違いなく変人扱いされる。

 遼平は、純粋に絵が好きでこの美術教師と接点を持ったのだが、最初は当惑する事が多かった。ただ、元々この先生は独りでいる場合が多かった為、二人だけで話し合うにつれ要領を得たのか、第三者がいる場合でも遠慮せず突拍子も無い事をいう人の近くにいるという気恥ずかしさを感じる機会は少なくなっていた。
 それどころか現在では、仮にそういう状況になったとしても、平静でいられる自分に一種の精神的成長を感じていた。
 とはいえ、さすがに自分の事を評されると当惑せずにはいられない。

 「え…、そう、なんですか?」

 恐る恐る聞き返す。

 「うん、マドモワゼル・シャネル嬢よりも物憂げだわ」
 「マドモワゼル?」
 「マリーちゃんの絵よ。」

 友達であるかのように、アール・デコ期の画家、マリー・ローランサンの事を言う。

 「そう、輪郭がぼやけていて沈思黙考していて食べ物もペットもいるのに、そういったものに阿る事も無く、凛とはしているけど、難しい何かを抱えている感じなの。」

 上村の世界は続く。

 「もう、『孤独』なんて生易しいものはとっくの昔に過ぎている感じの顔。そういったときに放たれる目は、どこかしら、仏像に似ているわね。ま、遼ちゃんのそれは、そういった荘厳な感じではないんだけど、少なくとも何かを思い詰めている事は確かだと思うわ。」

 ローランサンの人生などに、上村は全く興味が無い。いや、興味を持つ必要が無い。上村は、絵の世界が見えているだけのようであるから。

 実は…、と、ここで忌憚なく相談できるような人間ならば、遼平はどこか陰影のある人間にはならなかったであろう。顔をうずめるようにして、母が作った弁当を食べる。

 「まあ、全ては筆の導くままに…」

 そういうと、上村は軽く微笑して、絵筆を取り、くるっとふり返って描きかけの絵の続きを描き始めた。
 その姿は、落書き帳に絵を描いている少女のように楽しげだった。

 遼平は、その姿を見るにつけ、やっぱ先生には敵わないな、と心の中でくすっと笑っていた。

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