ということで、日々、様々な問題による事件というものを、我々はニュース越しに聞いているわけですけれども、ネットをやっていると、「あ、こんなことが事件になっているのか」とか「あ、やっぱこれ事件になったか」というのを目の当たりにして、より、事件の親近性を感じてしまい、ネットが普及していなかった頃に比べ、やけに身近な出来事のような気がして、毎回ハラハラしながら聞くわけです。
 と共に、そういった社会装置の変容及びそれに伴う人々のモノの捉え方の変化が想起されてしょうがありません。で、書きたいわけですが、これは非常に微妙な議論で、しかもただ今風邪引き中で、うまくまとまりません。というか、誤解を招くような文章になりかねん。
 
 いいたい結論だけははっきりしてるんですがね。
 ?科学という「神」の相対化。そして、それはニーチェが虚無主義に繋がるといったキリスト(神)で行われたような相対化(正確に言うと「科学」は「神」性を保持しうるものであっても、それを扱う人間が「神」を卑俗化する)である、ということ。?マスコミ等による闇・未知の社会的領域をディスクローズして行くといった、それ自身は至極正当で公益な作用そのものが、?−1かえって局所的隠蔽化作用(闇)の高濃度化、?−2あるいは闇・悪が合法化されるといったものを想起させます。?−2に至っては、徳政令的居直りや毒物である酸素をエネルギー供給源とした好気生物(ミトコンドリア)の出現といったコペルニクス的転換とでも喧伝するのでしょうか。

 しかし、それにしても、人はなぜ犯行声明とか、あからさまにこれヤバいだろ、という文章を書きたがるのだろう。「確信犯」とするには自滅的・破滅的過ぎますし、想像力の欠如で片付けるとすれば、そもそも、犯行声明や誹謗中傷の文章において、今の自分がまさにしようとしている行為あるいは、自分が不快に思った対象に対してあれほどの揶揄やら罵詈雑言ができるのでしょうか。

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