続・月のワルツ

2004年12月29日 映画
 ということで、いつぞや言ってた、NHKみんなのうたでの
「月のワルツ」(みんなのうたにしては)大人気らしいですね。

http://www.ongakudb.com/contents/news.aspx?code=0412280

 いや、あれは衝撃でしたよ。あの時は、歌や歌詞とかどうでもいい(失礼)といったのですが、作詞・湯川女史だったんですね(超汗)
 歌が良いらしいですが、なんと言うか、個人的には映像がまずありきで、歌は、映像に後押しされた感じがしないでもないです。いわば、アニメやドラマの映像内容の良さに後押しされた主題歌みたいな感じと言ったらよいでしょうか。って、こうやって総体として良さを、どれか一つの素因に限定したがるのは、悪い癖ですな。チーム重視のこの世にあるまじき和の乱し方でござる。やっぱり、他の要素が興醒めするものだったら、当然良いものも色褪せるわけですから、やはり他の要素のクオリティも高かったんでしょうね。私としては、それが分析できない程、映像に圧倒されてしまったので、誰か作詞&歌の良さについて、論じていただけるとありがたいです。

 って、なんでいつも、こんなにお茶を濁したくなるのかいね。そもそも関係ない話にそれまくってるし。

 ということで、これによると、映像作家さんの名前は、新進気鋭のいしづか女史とのこと。「女史」に関しては予想通りだった(アングルが女性視点が多かったにも関わらず、男性への働きかけが少なかったですからね。)のですが、これほど秀逸な作品を意図的じゃなくこれを作ったらしい、というのは意外です。いや、意図的じゃないからこそ、無限増幅的な連想ができるんでしょうね。私としては、結構、小さい頃、絵本やら近現代の文学の古典、かなり何回も読みこんでらっしゃる印象は受けたのですがね。しかし、ここまで自分の精神に集中するって、かなり大変だったでしょうね。かなり身を削ったんじゃ…。まあ、それが表象家の醍醐味だとは思うのですが、おかげで我々ギャラリーは涙を超えた情動を与えてもらったわけですが。いずれにせよ、具体的には以下の感想で。
 ということで、我が家にはビデオが無いし、何よりあの映像は一回(精確には一回半。はじめ、途中から見て衝撃を受けて、その後、時間をちゃんと調べて、空いてる時間に見たのだ。)みただけで、記憶だけで思い出すしかないんですけど、久々に気合入れて感想書きたくなったので、以下に書きます。というか、DVD化されないかなぁ。単に「みんなのうた」ということで、幼児が居る家庭や、純粋に映像表現が好きなクリエイター、そして大学生〜30代前半くらいまでの女性を中心に売れそうな感じがするんだけどなぁ。全然、根拠ないですが。
 
 ということで以下に感想をば。既述の通り、さすがに2ヶ月くらい前に1回(半)きりみただけなので、全然覚えてないので、もう一度映像見れたら洗いざらい書き直ししなければいけないくらい、記憶違い・印象変化等々あると思いますが、そこはご海容をば。(というか、殴り書きとはいえ、これくらい書い(ネタ晴らし)たら、もう殆ど書いたような感じですね(苦笑))

 と思ったら、明日7時から9時間労働だった(現在2時過ぎ…)
ということで、またの機会にでも…。

 というか、誰か録画してる方がいらしたら是が非でも、お裾分けください(切実)当然の事ながら、対価はお支払い致しますので(って、なんか急に生々しくなったな、おい。)

 【以下備忘用】
 人形・少女・うさぎ←ルイス・キャロル
 オルゴールアナログ時計・宇宙←時間概念。デジタルがないのはポイント。ついつい、宇宙やらの渇いた無機質な非感情の世界では、デジタルでそれを補いかちだけど、それを使ってない事で、かえって、無機質世界で「こころあるもの」の存在が前景化される。円環が多いのも印象的。
 オルゴールの人形が擬人化してストーリーへ、そして最後はまた人形として終わる←アニミズム・「おとな」がわからない世界。なんだっけ、あったよなぁ、「鬼の居ぬ間に洗濯」ならぬ「大人の知らない世界」、子供しか見えない話せない擬人的存在とのやりとりって。ホビット?ビルボ・バギンズ?なんか2,3作品はあったような…。
 織姫・彦星とまでは全然行かない。恋人未満は言わずもがな、友達未満。なんとなく、異性同士であるものの、ジョバンニとカパネルラみたいな感じ。宇宙だし(ってをい)
 あるいは、谷川俊太郎的二十億光年の孤独。永遠に人は他人・世界のすべては知り得ない、ないしは自分は永遠に孤独だということを感情を超克して胸へと刻まれる印象。この意味でアラビックな男性。日本人にとっては遠い存在、他者・異人的存在であるものの、宇宙人のように、完全に遠い存在でない。かといって未開民族だと、思惟足りうる存在とはならない印象なので、文明人で日本人にとって「異人」といったら、こうなるのかなぁ。年齢的に少年(ローティーン)であるのは不可欠。悩み多き人間やこの世代には、自分の疎外感が惹起されるだろうし、それを過ぎた世代には、中年のエア・ポケット状態まで、束の間の安定している精神を再び揺らがせ、脆い故に瑞々しかった感情を呼び覚ます感じ。
 目ヂカラを持たせない事で、人物本位でなく遠景本位になってる。時間・空間・対人に対する思惟布置には、効果的。タレ目というか、くすんで虚ろなのも、ついには離人感というか、人間をも物質的存在に還元させるかのよう。とはいっても、ただ単に、人形からの整合性、もしくは宇宙=暗いというイメージからかもしれないが。
 いずれにせよ、時間・宇宙・自己存在という哲学的命題(といっても哲学的であって「哲学」ではない。堅苦しい文章使わないし、どちらかというと、右脳的というか脳梁的だから)を喚起させる。ということは、否応無しに、現状の自分を揺らがせるから、思春期過ぎて大人になればなるほど、忘れてた感覚を呼び起こすし、一方で現在の生活がそれの連続であるローティーンには、ちょっと対応しきれないくらいに、凄まじい衝撃は受けそうな気がする。
 

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