米長邦雄永世棋聖が良く扇子に揮毫されていた言葉だということは、いつぞや書きました。元々は幸田露伴が言っていた言葉だということもいつぞや書いた気がします。
 
 某H氏が好きな河口老師が、「月下の棋士」で米長さんの事を取り上げた巻があったとき、人気者であるが故に、「内輪にはそれを妬むものも多かった」という狭い社会でのマイナス面を取り上げた一節があり、ぎょっとすると共に、なぜ氏が「惜福」なる言葉を扇子に書いていたのか、わかった気がしたのも今は昔。

 でも、これって重要なんですね。

 最近、優れた人間ばかりと接する機会が多くなってきたわけですが、やっぱ羨望すると共に、嫉妬というか負けず嫌いの気持ち、何より「ああ、おいらはダメだ」という打ちのめされ感が沸々と湧いてくるわけで(←未熟者)
 
 で、こんな時、惜福しない人間がいると、やっぱ一緒にいてつらい気持ちが湧いてくるわけです。自分を主客から離してメタレベルで考えると、一流である事と、孤独である事は密接な関係があるのも、こういった情況があるからでしょう。

 なので、自分が気持ちの良い立場にいる。そういう時ほど、慎重な態度で多くを語らず、いい気になって大言壮語を吐いたり、やんちゃな行動をしない。こうすることで、勢いが滞り、逆風モードになった時でも、自分自身を責めずに済むと思います。終には、そういった正念場でも「悪振らず悪怯れず」とも良い明鏡止水の心境で切り抜ける事ができるでしょう。
 やっぱり、日常は良い事ばかりではありません。なのに、調子が良い時は、人は、ある種酩酊状態のような、自分自身への万能感・ナルシシズムが生じます。そして、暴走する人も中にはいるみたいですが、惜福の気持ちを持っていれば、冷めた時のギャップに苦しまずに済むような気がしますな。

 ということで、自分が主役になりそうな時には、絶対に必要以上に目立たないようにと気をつけているさいぺがいましたとさ。

 というか、実のところは、皆が主役になってて、私は演出家みたく、舞台の袖で、ひっそりほくそえむ方が性に合ってるのだ。(わっはっは)どうも自分が主役になるのは、照れくさいのだ。

コメント