ネットで個人的なサイトを見ると、様々な人がいるんだなぁ、
とつくづく人間性とは何かについて考えさせられます。(って、
こんなに高尚には思わない)

 大多数は、非常に面白くて、ついついだらだら〜っと閲覧させ
てもらって、その後、ああこんなに時間が過ぎたのね、と後悔す
ることひとしきり、と言う場合がしばしばありますが、これば
っかりは愉しいでね、止めるに止められない。

 しかし、そういった私でも、未だに受け付けられないものがあ
ります。それは、何か目標に向けての自分の努力(?)みたいなの
を綴っただけのテキスト。

 そういうのアップしている時間があったら、その目標に最短で
行けるように練習やら努力やら上から認められるように、なぜや
らないの?としか、私なんぞは思えない人間でして。

 どうも、良いトコ取りだけしたい、「主役バカ」のような気が
するわけですね。
 大体、努力や練習やらは、気持ちが乗っている時は別として、
えてして、辛かったり孤独を感じたりする作業です。そういうの
をガマンできずに、ネット上の不特定多数の人間と傷を舐め合う
事で、それを惑わし、挙句の果てに結果が結びつかない。なんじ
ゃそりゃ、と言いたくなるわけですね。

 いや、気晴らしは必要だと思うのですが、気晴らしどころか、
それがメインになってる人間が多いこと多いこと。一体、あなた
の目標はなんなの?としか言えません。
 それで、ハンディキャップ理論みたいに、いやアルバイトも
兼ねてやってたからダメだった、みたいに逃げ道もちゃ〜んと
用意してたりする。私なんぞは、この1年で絶対結果を出すから
その間、養ってくれ、と親だの投資者に交渉し思う存分、その
目標に当たれる環境を、なぜ作り出そうとしない、と思うわけ
でして。というか、そういう言い訳めいた事を作り出す時点で、
失敗&自分の限界を知ることへの恐怖から逃げてる気がしてなり
ません。
 結局、皆から褒められてチヤホヤされるからとか、みたいな
別にその目標じゃなくても良いものに対する願望が強いけど、
人を振り向かせるには、大言壮語吐いて、目標だけはデカくして
るんじゃ…、と思ったりするわけですね。

 1年なら1年とタイムリミットを決めて、自分への限界へと目
立たぬようにストイックに挑戦する。そして、それでもダメとわ
かったら、才能が無いと諦め、他の潜在的な才能への発掘へと取
り組むか、才能が無いと認めた上で、才能が無いなら無いなりに
人一倍努力して、何とかしがみつく。そういう姿勢が日本人が世
界に誇る勤勉性だの美意識だのを創出していたんじゃないんです
かね。

 大体、練習だの勉強だのの記録を世界に向けて公表する時点で、
「自分はこれだけ頑張ったんだ」
 みたいな、努力を認めて欲しい願望があるような。自己流の
努力だけで、人から認められるなら、そんな楽な−というより、
歪んだ・醜い−世の中はありませんさね。
 
 息抜きが欲しいのなら、別に「努力しました」的文章じゃなく
て、それとは全然違う話題とか、素直な自分の気持ちを書けばよ
いのに。

 喩えるとすれば、「ひきこもり」の人間が、自分がひきこもり
だと感じるあまり、かえって症状を悪化させる悪循環を起こすよ
りは、そもそもひきこもれる経済力があるんだから、ひきこもり
だとは思わず、どんどん遊べ、と言う考えなんですね。私は。
 結局ね、「ひきこもり」という社会的弱者にはなりたくないけ
ど、社会的弱者しか得られない庇護・恩恵は(往々にして潜在的
に)得たいという願望があるような気がしてなりません。つまり、
結果は出せないんだけど、認められたいあまり、努力そのもの
が・テキストをアップすること自体が目的化するという歪んだ目
標が、そんな事ばっかやってると生じてしまうのでは、と思うん
ですね。
 それよりか、「オレは放蕩息子だ。放蕩できる環境に生まれ
たんだから、そうやって何が悪い」くらいの勢いで、やった方が
周囲の人間からの、肯定・否定両面の率直な反響が大きい、とい
う点で、その人を大きくさせる気がします。だいたい、そこで、
人から否定されたとしても面白いと思わなきゃ。ほぅ、こういう
考えがあるんか、みたいな。
 そうやって大人になった方が、大人の良さがわかる大人になれ
ると思うんだけどなあ。
 
 その人がその人らしく生きる事に情熱を注ぐ人間が好きな私で
したとさ。

コメント