言質至らしめる剽窃82:現実への覚悟、自分との対峙
2004年4月30日 端倪すべき夢幻能 ネットで個人的なサイトを見ると、様々な人がいるんだなぁ、
とつくづく人間性とは何かについて考えさせられます。(って、
こんなに高尚には思わない)
大多数は、非常に面白くて、ついついだらだら〜っと閲覧させ
てもらって、その後、ああこんなに時間が過ぎたのね、と後悔す
ることひとしきり、と言う場合がしばしばありますが、これば
っかりは愉しいでね、止めるに止められない。
しかし、そういった私でも、未だに受け付けられないものがあ
ります。それは、何か目標に向けての自分の努力(?)みたいなの
を綴っただけのテキスト。
そういうのアップしている時間があったら、その目標に最短で
行けるように練習やら努力やら上から認められるように、なぜや
らないの?としか、私なんぞは思えない人間でして。
どうも、良いトコ取りだけしたい、「主役バカ」のような気が
するわけですね。
大体、努力や練習やらは、気持ちが乗っている時は別として、
えてして、辛かったり孤独を感じたりする作業です。そういうの
をガマンできずに、ネット上の不特定多数の人間と傷を舐め合う
事で、それを惑わし、挙句の果てに結果が結びつかない。なんじ
ゃそりゃ、と言いたくなるわけですね。
いや、気晴らしは必要だと思うのですが、気晴らしどころか、
それがメインになってる人間が多いこと多いこと。一体、あなた
の目標はなんなの?としか言えません。
それで、ハンディキャップ理論みたいに、いやアルバイトも
兼ねてやってたからダメだった、みたいに逃げ道もちゃ〜んと
用意してたりする。私なんぞは、この1年で絶対結果を出すから
その間、養ってくれ、と親だの投資者に交渉し思う存分、その
目標に当たれる環境を、なぜ作り出そうとしない、と思うわけ
でして。というか、そういう言い訳めいた事を作り出す時点で、
失敗&自分の限界を知ることへの恐怖から逃げてる気がしてなり
ません。
結局、皆から褒められてチヤホヤされるからとか、みたいな
別にその目標じゃなくても良いものに対する願望が強いけど、
人を振り向かせるには、大言壮語吐いて、目標だけはデカくして
るんじゃ…、と思ったりするわけですね。
1年なら1年とタイムリミットを決めて、自分への限界へと目
立たぬようにストイックに挑戦する。そして、それでもダメとわ
かったら、才能が無いと諦め、他の潜在的な才能への発掘へと取
り組むか、才能が無いと認めた上で、才能が無いなら無いなりに
人一倍努力して、何とかしがみつく。そういう姿勢が日本人が世
界に誇る勤勉性だの美意識だのを創出していたんじゃないんです
かね。
大体、練習だの勉強だのの記録を世界に向けて公表する時点で、
「自分はこれだけ頑張ったんだ」
みたいな、努力を認めて欲しい願望があるような。自己流の
努力だけで、人から認められるなら、そんな楽な−というより、
歪んだ・醜い−世の中はありませんさね。
息抜きが欲しいのなら、別に「努力しました」的文章じゃなく
て、それとは全然違う話題とか、素直な自分の気持ちを書けばよ
いのに。
喩えるとすれば、「ひきこもり」の人間が、自分がひきこもり
だと感じるあまり、かえって症状を悪化させる悪循環を起こすよ
りは、そもそもひきこもれる経済力があるんだから、ひきこもり
だとは思わず、どんどん遊べ、と言う考えなんですね。私は。
結局ね、「ひきこもり」という社会的弱者にはなりたくないけ
ど、社会的弱者しか得られない庇護・恩恵は(往々にして潜在的
に)得たいという願望があるような気がしてなりません。つまり、
結果は出せないんだけど、認められたいあまり、努力そのもの
が・テキストをアップすること自体が目的化するという歪んだ目
標が、そんな事ばっかやってると生じてしまうのでは、と思うん
ですね。
それよりか、「オレは放蕩息子だ。放蕩できる環境に生まれ
たんだから、そうやって何が悪い」くらいの勢いで、やった方が
周囲の人間からの、肯定・否定両面の率直な反響が大きい、とい
う点で、その人を大きくさせる気がします。だいたい、そこで、
人から否定されたとしても面白いと思わなきゃ。ほぅ、こういう
考えがあるんか、みたいな。
そうやって大人になった方が、大人の良さがわかる大人になれ
ると思うんだけどなあ。
その人がその人らしく生きる事に情熱を注ぐ人間が好きな私で
したとさ。
とつくづく人間性とは何かについて考えさせられます。(って、
こんなに高尚には思わない)
大多数は、非常に面白くて、ついついだらだら〜っと閲覧させ
てもらって、その後、ああこんなに時間が過ぎたのね、と後悔す
ることひとしきり、と言う場合がしばしばありますが、これば
っかりは愉しいでね、止めるに止められない。
しかし、そういった私でも、未だに受け付けられないものがあ
ります。それは、何か目標に向けての自分の努力(?)みたいなの
を綴っただけのテキスト。
そういうのアップしている時間があったら、その目標に最短で
行けるように練習やら努力やら上から認められるように、なぜや
らないの?としか、私なんぞは思えない人間でして。
どうも、良いトコ取りだけしたい、「主役バカ」のような気が
するわけですね。
大体、努力や練習やらは、気持ちが乗っている時は別として、
えてして、辛かったり孤独を感じたりする作業です。そういうの
をガマンできずに、ネット上の不特定多数の人間と傷を舐め合う
事で、それを惑わし、挙句の果てに結果が結びつかない。なんじ
ゃそりゃ、と言いたくなるわけですね。
いや、気晴らしは必要だと思うのですが、気晴らしどころか、
それがメインになってる人間が多いこと多いこと。一体、あなた
の目標はなんなの?としか言えません。
それで、ハンディキャップ理論みたいに、いやアルバイトも
兼ねてやってたからダメだった、みたいに逃げ道もちゃ〜んと
用意してたりする。私なんぞは、この1年で絶対結果を出すから
その間、養ってくれ、と親だの投資者に交渉し思う存分、その
目標に当たれる環境を、なぜ作り出そうとしない、と思うわけ
でして。というか、そういう言い訳めいた事を作り出す時点で、
失敗&自分の限界を知ることへの恐怖から逃げてる気がしてなり
ません。
結局、皆から褒められてチヤホヤされるからとか、みたいな
別にその目標じゃなくても良いものに対する願望が強いけど、
人を振り向かせるには、大言壮語吐いて、目標だけはデカくして
るんじゃ…、と思ったりするわけですね。
1年なら1年とタイムリミットを決めて、自分への限界へと目
立たぬようにストイックに挑戦する。そして、それでもダメとわ
かったら、才能が無いと諦め、他の潜在的な才能への発掘へと取
り組むか、才能が無いと認めた上で、才能が無いなら無いなりに
人一倍努力して、何とかしがみつく。そういう姿勢が日本人が世
界に誇る勤勉性だの美意識だのを創出していたんじゃないんです
かね。
大体、練習だの勉強だのの記録を世界に向けて公表する時点で、
「自分はこれだけ頑張ったんだ」
みたいな、努力を認めて欲しい願望があるような。自己流の
努力だけで、人から認められるなら、そんな楽な−というより、
歪んだ・醜い−世の中はありませんさね。
息抜きが欲しいのなら、別に「努力しました」的文章じゃなく
て、それとは全然違う話題とか、素直な自分の気持ちを書けばよ
いのに。
喩えるとすれば、「ひきこもり」の人間が、自分がひきこもり
だと感じるあまり、かえって症状を悪化させる悪循環を起こすよ
りは、そもそもひきこもれる経済力があるんだから、ひきこもり
だとは思わず、どんどん遊べ、と言う考えなんですね。私は。
結局ね、「ひきこもり」という社会的弱者にはなりたくないけ
ど、社会的弱者しか得られない庇護・恩恵は(往々にして潜在的
に)得たいという願望があるような気がしてなりません。つまり、
結果は出せないんだけど、認められたいあまり、努力そのもの
が・テキストをアップすること自体が目的化するという歪んだ目
標が、そんな事ばっかやってると生じてしまうのでは、と思うん
ですね。
それよりか、「オレは放蕩息子だ。放蕩できる環境に生まれ
たんだから、そうやって何が悪い」くらいの勢いで、やった方が
周囲の人間からの、肯定・否定両面の率直な反響が大きい、とい
う点で、その人を大きくさせる気がします。だいたい、そこで、
人から否定されたとしても面白いと思わなきゃ。ほぅ、こういう
考えがあるんか、みたいな。
そうやって大人になった方が、大人の良さがわかる大人になれ
ると思うんだけどなあ。
その人がその人らしく生きる事に情熱を注ぐ人間が好きな私で
したとさ。
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