成人式。もう、ヤンキーが暴れるのも映像とし
て何の刺激も無いというか、呆れすら覚えないと
言うか、叱る気も起きないという救われなさです
ね。無粋だとは思うけど、やっぱ法的に取り締ま
る必要があるみたいですね。まあ、大人だから、
自己責任の中の自由を体得させる為にも、必要で
しょう。今まで、結局「学校」という護られた世
界で幅を利かせていた人間の井の中の蛙ぶりに呆
れると共に、彼らが世の仕組みがわかって、自分
がいかに恥ずかしい行動をしていたのか気づいた
時の事を思うと、こっちまで恥ずかしくなってき
ます(経験者(謎)は語る)

そもそもだね。
ヤンキーなら、式典に行くな。
「式」に居ること自体、カッコ悪いだろ。
そういうの否定してぶっ壊すのがヤンキーじゃ
なかったのか?なんか、最近は屈折して、式には
参加するけど、参加してぶっ壊すという、目立ち
たい一心だけの構われたい人間が多くなってるよ
うな気がするね。まぁ、昔も根本はそうだったか
もしれないけど、自分の立場はわきまえていた感
じがする。
 ついでに言うなら、20歳になってまで、ヤン
キーやるな。20歳過ぎて珍走団やるみたいなも
んだぞ。
 
 と、まあ恥ずかしさを取り払う為の叫びは、こ
れ位にして、ちゃんと警察は取り締まって欲しい。
いや、治安が悪くなるから、という理由じゃなく
て。(いや、最終的にはこれになるけど)
 
 というのはだね、仁科君。
 前、紳助さんが言ってたんだけど、

絶対叱ってくれる人、必要って。
だって、オレがワルやってた頃、
メチャ怖い先生がいて、それ、
「コワ〜」と思いながらもやっ
てたから、あんなに面白かった
んだもん。

 みたいな感じの事を言っててね。所詮、野郎と
言うのは、くだらない生き物で、ぶっ壊す=禁忌
を侵したい願望みたいなのがあるんだよね。でも、
ダメ、という常識的な自分が、それを抑制する。
そして、その二者の狭間で、事に踏み込む時、人
間というのは、冒険のようなハラハラ・ドキドキ
感を持つんだよね。
 で、これが子供の頃だと、社会的責任も無いし、
大体子供がやる事は、大事にはならんので、先生
に怒鳴られたり殴られたりして、良い思い出にな
る。そして、そういう子供が大人になって、一番
思い出される先生といえば、そういう先生なわけ
なんだよね。
 実は、これも当然のことで。
 だって、「怒る」ならまだしも、「叱る」って、
かなりエネルギー使うことじゃない?本当に、相
手を想ってないと、そうそうできるもんじゃない。
最近は、「怒る」と「叱る」の弁別ができなく、
さらに悪い事に両者とも、あまり喜ばしくない
人間の精神状態とする間違った風潮があるけど、
そもそも怒りは、生物として(原始的と言うなか
れ)基本的な感情なんで。それを否定することは、
人間を動物として見てないことになる。小世界な
らまだしも、全世界の人間にこれを強制するなん
て無理だ。
 まあ、現代社会の都市化の歴史は、そもそも対
人関係にかけるエネルギーを霧消する方向に傾注
されていったといっても過言ではない。確かに、
煩雑な柵は私だってゴメンだ。ただ、子供という
ものは、「禁じられた遊び」をしたがるもので、
それで殴られる、こっぴどく叱られるという事を
常に想定しながら、危険な賭けという甘美なゲー
ムに身を投ずるものなのだ。そして、さらに言う
なら、くだらない事やってる自分に対して、どこ
か心の奥底には真剣に叱ってくれる人間を捜し求
めているきらいもある。法みたいな公的なもので
はない、こういった不文律の習慣を現代社会に求
める事は、最早不可能なのだろうか。確かに、少
年が凶悪化しているので、昔みたいに成人が凄味
を利かせる事ができなくなったけど、どこかの標
語よろしく
「『大人』を逃げるな」
と言いたい。
 
 でないと、根底に「叱られたい」願望がある人
間は、叱られるまで、どんどん凶悪化すると思う
よ。それは、(今までの話の流れだと副次的な事だ
けど)治安悪化にも繋がる。
 
 ってな感じだ仁科君。
 というか、今や少数派なのか?凄味があって厳
しいけど、どこか温かみ・人情がある年輩の方に
惚れこむ(一応)若者は?というより、「惚れる」
の意味が変わってきてるかもしれないね、最近で
は。良いイメージと悪いイメージ、清濁併せた上
で、普通にしていても頭の中でその事が想起され
る感じじゃないの?
悪いイメージが多くなるとトラウマみたいな文章
に見えちゃうけど、まぁ、こういうのは言語化す
るのは難しいし、そもそもしちゃいけない事だね。
興醒めしちゃうし。

 そんなこんなことを思う一日でした。

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